働く広場2017年11月号
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19働く広場 2017.11小仲 邦生こなかくにお 私は小学生のころ、父親が「走れない」のをいいことに、叱られそうになると父親の前から走って逃げていた。あるとき私は父親に、庭に立つ大木に麻縄で縛られ、道行く同級生たちにからかわれ、恥ずかしい思いをしたことがある。逃げた自分は卑怯だった、と自覚したのは7~8歳のころだったか、忘れられない父との思い出である。 私が障害者福祉の世界に入ったきっかけは、二つある。一つめは、父親が下肢に障害(右足が左足より10㎝短かった)があったことだ。しかし、茅かやぶ葺き職人として働く父親を見て「障害者だから」という感覚はなかった。仕事に誠実で、竹細工や魚とりが上手な父親は、タバコの「ゴールデンバット」と焼酎が大好きだった。そんな父は、私が12歳の夏、好きな焼酎を晩酌しながら脳出血を起こし、その2時間後に逝いってしまった。障害(身体障害者手帳4級)がありながらも働き続けた父は、その人生を突然終えた。父に縛られたあの大木は、いまも生家の庭にそびえている。 二つめは、三番目の兄に視覚障害があったことだ。目の疾患から弱視となり、中学校からは家を出て、県立盲学校の寄宿舎住まいとなった。長期の休みには自宅へ戻り、夜遅くまで点字板を使い、ノートをとっていた。私が点字の仕組みを理解したのは10歳ころだったと思う。兄の盲学校の教師N先生は、アメリカの小説家、パール・バック女史とおつきあいがあり、女史からのお手紙を拝見したことがある。女史には、障害のあるお子さんがいることをご存じだろうか。私が高校生のときに、N先生は水俣病のことを念頭に、環境問題と障害者福祉に言及し、「福祉の勉強をしたいのであれば明治学院大学で勉強してみては」と薦められた。 1968(昭和43)年、私は学園紛争真っ盛りの大学に入り、社会福祉学を専攻した。視力に障害のある同級生が東京、千葉、福井、佐賀などから入学していた。点字教科書はなく、アテンダントシステムも皆無。「点訳会」のサークルメンバーが微々たる支援をしていたに過ぎず、教授の言葉をひたすらに点字でノートしていた時代だ。私は、入学直後に「点訳会」に入り、数カ月で童話の点字本を一冊仕上げることができた。幼いころ、布団のなかで点字を打つ音を聞いていた自分が、短編とはいえ完成させたことは感激だった。字数は少ないが、兄に点字の手紙を送ったこともある。おかげで、いまでも点字を(目で)読め、(点筆で)打つこともできる。 学生時代から出入りしていた社会福祉法人日本点字図書館(東京都新宿区高田馬場)の本間一夫館長から「男性職員が少なく貴重です」といわれ、就職が決定した。20代の男性職員は、私を含め3人だった。当時の日本点字図書館は、点字図書や録音図書の貸出しが主な業務だったが、私の配属先は「点字本や録音テープを借りたついで」に立ち寄ってみようかと思う、視覚障害者用具などを販売する「用具部」という部署だった。 当時は、少しずつカセットへ移行しつつある時期だったが、テープレコーダーといえば、テープを巻いたリールが単体で存在する「オープンリール」だった。用具部では、ナショナル(現パナソニック)製のオープンリールテープレコーダー(4トラック)と、ソニー製のカセットレコーダーの、両方を販売していた。カセットテープは、A面、B面に凸表記され、触って識別できるソニー製のものを取り扱っていた。見える人には識別は不要だから、知らないのが当たり前ではあるが、そのような工夫がされていることを知っている“晴せい眼がん者しゃ”はそう多くはいなかった。 また、「視覚障害者がテレビ(の音)を楽しめるように」と、ソニー製の『テレおん』という携帯用のテレビ受像機も販売していた。なぜソニーがこのような機器を開発していたのかは、後にお話しする、身体障害者授産施設(現在の障害者自立施設)「太陽の家」に就職してわかった。太陽の家でソニーの井深大会長(当時)とお話しすることができたのは、不思議な縁というしかない。最初に知った働く障害者は「父親」第2回こなかくにお 熊本保健科学大学リハビリテーション学科 非常勤講師。明治学院大学社会学部卒業後、社会福祉法人「日本点字図書館」での勤務を経て、1975(昭和50)年に社会福祉法人「太陽の家」、1980年に参議院議員八代英太事務所に勤務。1982年には社会医療法人熊本丸田会 熊本リハビリテーション病院、2001(平成13)年には社会福祉法人「リデルライトホーム」での勤務を経て、現在に至る。長年、医療と福祉、リハビリテーションにたずさわる。

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