エルダー2017年10月号
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エルダー35だ。だが、種彦の性格はまじめで、あまり酒も飲まない。食事も米を食わずに麦を食っていたという。 このころ、幕府は老ろう中じゅう筆頭水みず野の忠ただ邦くにが「天てん保ぽうの改革」を行っていた。趣旨は「勤倹節約・風紀一新」である。水野は殊ことに「外国列強の日本に対する圧迫」を感じていたので、余計、 「国民がもっと気持ちを引き締めなければならない。政治を行う幕府役人は特に国民の模範になるように、士し風ふうを改めなければならない」 と考えていた。たまたまその水野の耳に、 「柳亭種彦の書いた『偐紫田舎源氏』は、恐れ多くも十一代将軍徳川家いえ斉なり公の大奥の生活を風刺したものだそうです」 という告発があった。水野は江戸町奉行の遠とお山やま金きん四し郎ろうに、 「こういう噂がある。さっそく調べろ」 と命じた。 俗に〝遠山の金さん〞と呼ばれるこの町奉行は江戸の庶民に評判がいい。それは水野の発する厳しい法令をうまく活用して、〝勧善懲悪〞に利用したからである。江戸っ子はみんな、 「町奉行の遠山の金さんは俺たちの味方だ」 といって、金さんの人気を大いに高めていた。金四郎は『偐紫田舎源氏』を読んだ。 しかし、(この程度なら、別に上様(将軍)を風刺したものではない)と感じた。だが、上司の水野のいうことだから放っておくわけにはいかない。どうするか、金四郎はいろいろ知恵を絞った。やがて、 「これで行こう」という一つの案を立てた。そこで種彦を奉行所に呼び出した。白洲ではなく、自分の部屋に呼んだ。 「高屋さん、しばらくでした」 といった。二人は顔見知りだった。種彦も、 「しばらくです。で、今日のお呼び出しは?」 と聞いた。金四郎は種彦の書いた『偐紫田舎源氏』を出し、 「御老中が、この本に目をおつけになりました」 「ほう」種彦には何のことかわからない。 「その本にどこか問題がありますか」 「わたしは別にないと思いますが、御老中が町の評判を気にされております。つまり、ここに書かれたことは上様の大奥生活を風刺したものだというのです」 「ばかな。そんなことは絶対にありません」 種彦は強く否定した。金四郎は頷うなずく。そしてこういった。 「悪評がいよいよ高くなっています。こうなさってください。いま高屋家に寄宿している柳亭種彦という人物を、家から追い出してください」 種彦は金四郎の言葉に引っかかった。しばらく考えた。やがて思い当たった。金四郎がいうのは、 「柳亭種彦という人物から離れて、しばらくは本名の高屋彦四郎(すなわち旗本の身分)に戻ってください」ということなのである。金四郎なりの種彦に対する好意であった。それがよくわかったが、種彦はすぐには応じなかった。 「遠山さん、ありがたいお申し出だが一晩考えさせてください」 金四郎は頷いた。自分の好意をおそらく種彦も受け止めてくれるだろうと思ったからだ。しかし、翌朝金四郎は部下から急な報告を受けた。それは、 「柳亭種彦が自殺しました」 という報告だった。柳亭種彦は立派に切腹していた。種彦はいまでいえば、 「好意はありがたいが、やはりペン(文字に)に殉ずる。しかし、殉じ方は武士らしく剣を以てする」 ということだ。その見事な志に、金四郎は心から種彦の死を悼んだ。金さんの粋な処分

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