エルダー2018年3月号
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2018.328[第66回] 江戸後期の文政年間に、小こ島じま蕉しょう園えんという武士がいた。徳川家の直じき参さんで、田安家(徳川御ご三さん卿きょうの一つ)に仕えていた。あるとき、領国である甲州の代官を命ぜられた。赴おもむくと、その地方は飢き饉きんで農民が非常に苦しんでいた。そこで蕉園はさっそく「年貢免除」のことを田安家に願い出た。しかし許可は得られなかった。蕉園は農民たちに責任を感じ、職を辞した。そして、甲州で覚えた徳本流の医者になった。貼はり薬ぐすりを主とする治療法で、この方法をはじめた徳本という医者は、 「礼はすべて一貼十八文とする」 という方針を立て守り抜いていた。蕉園もこれに倣ならった。しかし時世が移り物価高だったので、一貼二十八文ということにした。これが流行った。 その間、田安家では蕉園の申し出た甲州の年貢免除のことを調べ、蕉園のいったことが正しかったことを確認した。そこで減税を行った。そして蕉園に、 「前は済まなかった。今度は遠えん州しゅう(静岡県)の相さが良らの代官になってほしい」 と頼んだ。蕉園は渋々任地に赴いた。しかし、この地がたちまち気に入った。それは、代官所の側に古い寺があって、寺のなかに見事な桜の木が植うわっていたからである。蕉園は西行法師を尊敬していた。特に西行の遺詠の、 「願はくは花の下にて春死なん  その如きさ月らぎの望月のころ」 という歌が好きだった。如月というのは二月の事だが、旧暦では春の部に入る。望月というのは十五夜のことだ。西行が願ったのは、 「春の望月の夜に、爛らん漫まんと咲く桜の下で死にたい」西さい行ぎょうを慕う

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