エルダー2018年3月号
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エルダー29 という願望である。美しい願いだ。蕉園も、 (自分もそのときは西行法師のようになりたい) と願っていた。西行法師は不思議な人物で、事実かれは二月の満月の夜に、爛漫と咲く桜の木の下で死んでいった。 詠んだ歌の通り夢のような死であった。かねがね蕉園は西行を羨ましいと思っていた。 相良でも蕉園は善政を行ったので、住民たちから慕われた。住民たちは村で相談して蕉園にお礼をしに来たが、蕉園は受け取らない。しかし住民たちがどうしてもというので、 「それほどまでにいうのなら、わしの家の周りに桜の木を一本でも植えてくれ」 と頼んだ。村人たちは相談し、蕉園の家の庭に桜の木を植えた。これを毎年続けた。桜の木は次第礼はすべて桜の木をに増えていった。そして春になると必ず美しい花を咲かせた。 田安家が甲州地方で減免を行ったので、 「これは小島お代官のおかげだ」 と感じた住民たちが、お礼を持って相良にやって来た。しかし蕉園は受け取らない。そこで甲州の住民たちは相談して、お礼を入れた袋を庭の桜の木の枝に結びつけて帰って行った。蕉園は苦笑したが、そのままにしておいた。中身には絶対に手をつけなかった。蕉園は代官の仕事の合間には、地域で病人が出たと聞くと必ず訪ねて行って診察した。治療方法は昔のように徳本流を行った。つまり、貼薬を患者に貼って治療するのだ。これが効いて、病人は次々と治った。そして蕉園に感謝した。 蕉園が相良の代官を命じられたのは、すでにかなり歳をとってからである。歳が重なるにつれて、蕉園の体も次第に弱っていった。春になると、かれは庭に出て桜の花を仰ぎ、 (これが最後の花見かな) と思うようになった。桜の木の枝には、甲州の住民たちが持って来た礼を入れた袋がぶら下がっている。蕉園は、 (この袋は、必ず甲州の住民に返すようにと遺言を書いておこう) と思った。蕉園の父は唐から衣ころも橘きっ洲しゅうといって、四よ方もの赤あか良ら(大田蜀山人のこと)や朱あけ楽ら管かん江こうとともに、「狂歌の三大人」といわれた粋人だ。蕉園と同じ田安家に仕える武士であり、かつ、大酒飲みだった。毎日、二升・三升の酒を家に用意した。そして大きな箱にぐい呑みをたくさん入れておいて、来客には、 「どれでも好きなぐい呑みを取って酒を飲んでくれ」 といっていた。剛腹な奇人だった。 蕉園はそんな父親を見ていたので、 「わしは父のような生き方はしない。もっと、弱い人間の立場に立って仕事を考える」 と思い、その通り実行していた。文政七年の冬は寒さがひときわ厳しかった。蕉園は、 (へたをするとわしは春まで持たない) という気持ちで寒さを受けとめた。年が変わった一月の末に、蕉園は完全に体の衰えを身に沁みて感じ、よろよろと庭の桜の木の下に出た。ござを敷いてその上に座った。やがて静かにあの世に旅立った。夜が明けてこのことを知った村人たちは騒いだ。蕉園の遺体を桜の木の下に丁寧に葬った。そして、ありし日の優しく温かい代官の仕事を偲しのんだ。 村人たちは、いままでと同じように、毎年蕉園の墓の周りに桜の苗を植えた。伝えによれば、その数が百本あまりになったという。生地の江戸から離れた遠州の地で、蕉園はいまも眠っている。しかし、桜の花に囲まれたかれは、 (尊敬する西行法師様と同じだ) と、満足の気持ちを持ち続けている。

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